伊吹秀明 本人による著作解説
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1993 トクマノベルス全3巻 表紙/小泉和明、安田忠幸
1996 徳間文庫全2巻 表紙/横山宏
1999〜2001 コミック版全3巻 学研 絵/沖一
伊吹名義としてのデビュー作となります。
92年の春、いまはなき「Bクラブ」の特集で「紺碧の艦隊」の解説をおもしろおかしく書いたところ、それが徳間書店の方の目にとまり、荒巻義雄さんのインタビュアをやらないか、ということになりました。
SF大会が終わった8月下旬、荒巻さんの自宅がある札幌に向かい、帰りの飛行機の中で同行した荒巻さん担当のSさんから「架空戦記ものを書いてみませんか」という話をいただきました。ちょうど、フリー(無職ともいう)になったころだったので、まさに渡りに舟!(私は「特需」と呼んでいます)
幅のあるところを見せようと、奇天烈なものとオーソドックスなものの二案を提出したところ、「デビュー作は派手なものがいいです」というSさんの判断により、こちらが採用となった次第です。
文庫化の際には、ウンチク部分を大きく整理しています。氷山空母そのものや、この辺の経緯についてはコミック版のラストにも書いていますので参照して下さい。
●「氷山空母を撃沈せよ!」についての追加・裏話(2002年1月記す)
書くことになった、そもそものきっかけをここに初公開(IFCONのインタビューでは話していますが、文章化するのは初めてです)。
あれは1992年の2月くらいでしたか。ファンタジーを書ける人を探しているという話を聞き、私は某出版社を訪問しました。そこで約2時間ほどの打ち合わせを終えたときには、何故か架空戦記を書くことになっていたのでした。その文芸編集者が業界屈指のミリタリー好きでして、話がどんどん脱線してそうなった次第(笑)。
ところが、2、3か月後には、いろいろと事情があってその方が出版社を退社。お話は流れてしまったのです。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。これまでにもあちこちで書いたように、その後は雑誌「Bクラブ」(バンダイ)の記事→荒巻義雄氏のインタビュー→荒巻氏の担当SA氏から何か書くようにいわれる、という過程を経てデビューに至るわけです。
そのときにSA氏に提出した案はふたつあったのですが、氏の「デビュー作は派手にいきましょう」という判断で、「氷山空母を撃沈せよ!」になったわけです。
昨年IFCON1のインタビューで、「何でよりによって氷山空母という究極のイロモノを選んだんですか?」という質問がありましたが、結果的にはSA氏の判断で正解だったと思いますね。オーソドックスな艦隊決戦ものを、多少うまく書いたところで、これほど多くの人に印象を与えたとは思えませんし。
(もともとSFや幻想奇想小説の愛読者だったもので、氷山空母というガジェットにさほどの抵抗感を持っていなかったのは確かです。実際に計画されたナサニエル・パイクの氷山空母では物足りなかったので、その三倍以上のスケールにしたくらいですし)
あ、もうひとつ小ネタがあった。SA氏の最初の構想では、「氷山空母」の挿し絵をあの雨宮慶太氏に依頼するつもりだったとか……。さすがの私もそこまでは考えませんでしたねぇ。幸か不幸か(ちょっと迷うな、これは)、実際には打診もしなかったようですが。
ちなみに最初に登場した編集者氏はべつの出版社に移り、念願の架空戦記の出版を現在も続けております。私もそこから作品を上梓したことがあります(作品リストを見れば、簡単に推理することができるでしょう)。
そうそう、冒頭のファンタジー云々ですが、来年(2003年)辺りに書ける見込みになってきました。石の上にも3年どころか、実現まで11年かかった幻のデビュー作ということになりそうです。人間、粘りが重要だ(笑)。
1994〜1995 Cノベルス(全3巻 中央公論社) 表紙/加藤孝雄
で、もうひとつのオーソドックス案というのがこちら。「氷山空母」の1巻目が出た直後に電話がきまして、こちらのほうを書くことになりました。
マリアナ沖海戦を主題にすることにしたのは、単なる消去法でして、ミッドウェー海戦やフィリピン沖海戦(とくにサマール沖追撃戦)は何度も書かれている。残った大海戦であまり書かれていないのは、マリアナ沖海戦でした。もっとも、この海戦のあった昭和19年ころには日米の戦力差は圧倒的にひろがっているので大変でしたが。
1巻を出した後の95年1月、ニューヨーク・タイムズ紙からインタビューの申し込みがあったのですが、ちゃんと読んでから来てくれ、という感じでした。ものいえば唇寒し。
・コメントその2
1995年の作品。現在では入手困難となっていますが(版元の中央公論も新社になっちゃったし)、2002年の夏になってふたつの作品評に出会えました。
ひとつは夏コミで熱く語りかけてくれた人。その方にとっては「すべての架空戦記の中で、好きなトップ3に入る」とのこと。名誉なことです。ちなみに他の作品は横山信義氏の「八八艦隊物語」と……ああ、あと1作は失念してしまった。
もうひとつは「秘宝艦隊」(オルタネ書店)という同人誌で暇暇学生YU氏に紹介していただいたこと。リアル系架空戦記で、マリアナ沖海戦に勝つ作品は非常に希有な存在ということです(私もそう思う……)。なんでもシミュレーション・ゲームの「空母戦記」で本作の決戦プランを真似ると、絶望的なマリアナ海戦にも勝つことができたとか。
わずか7年前ながら、それでも移り変わりの激しい御時世。まだ忘れられていないものを書けたのは作家冥利につきます。(2002.12)
1994〜1999 歴史群像新書(全8巻 学研) 表紙/堀立明
1999〜 コミック版 絵/細馬信一
雑誌「歴史群像」の付録原稿の仕事をやったのがきっかけで学研の仕事もやることになりました。
日英同盟軍がアメリカと両大洋で戦うシリーズ。もともと艦艇ファンでしたので、なるべく多くの艦艇を登場させてやろうという意図のもとに始めました。日本人にはあまり馴染みのないイタリアやフランスの艦艇が数多く登場します。裏の主役はフランス戦艦のリシュリューだったりする。
ちなみに作者が一番気に入っているのは、4巻の「四人の追跡者」です。史実ではへっぽこだったイタリア海軍(の一部の軍人)が美女との賭けで燃える、という異色編。というか、こちらがふつうの小説で、架空戦記そのもののほうが小説としては異色すぎると思いますが。
遅筆と他の小説を並行で書いたおかげで、8冊書くのに5年もかかってしまいました。もっとも、外伝というかたちであと少し続く予定ですが……。
2000年 歴史群像新書(学研) 表紙/堀立明
数年前、学研の編集部に読者から電話があったそうです。かなり年配らしきその人は、「帝国大海戦」の中の軍事的間違いを何点か指摘したあと、
「でも、この作家は、最近のこの手のものの中では、ずいぶんまともなので、期待しています」と、結ばれたとのこと。
「迷霧の荒鷲」について、どう思われたことか、気にかかるところです。いや、とくに聞きたいわけではありませんが(笑)。
2002年 歴史群像新書(学研) 表紙/堀立明
ビキニの核実験(クロスロード作戦)の標的艦隊95隻が動き出すというアイディアは、わりと早い時期、95年くらいから考えていた(「邀撃マリアナ海戦」を書いていたころですな)。
ただ、あまりにも異質な話だし(発表先があるかという問題)、オチが決まらなかったのでしばらく寝かせておくことになった。
設定は大胆に、ディテールは細かく、というのが私の基本的な創作スタンス(「氷山空母」「スターパニック」「猫耳戦車隊」といったところからお分かりでしょう)。
本作はそれが最大限に活かされている。
ディテールのほんの一例を挙げれば、71頁で触れている長崎上空で撮られた未確認飛行物体の写真。物体の正体はともかくとして、その写真とカメラマンは実在します。そういったことの調査ばかりやっているから、執筆に時間がかかっているのだけど……。
著者コメント 02年8月版
喜びと落胆。
発売されてから数カ月後、とあるマスコミの知人から「『溟海の鋼鉄葬』はユニークで、小説としても大変面白かった」とお褒めの言葉をいただいた。しかし、「悪いけど、この手のは(書評には)取り上げられないんだ」ともいわれた。
この手のは、とは架空戦記のことだった。
ミステリーやホラー、そして売れないといわれているSFだって、新聞や一般週刊誌の書評欄で取り扱われている。しかし、架空戦記の書評や紹介記事はそういったところではまずお目にかかったことがない。
「溟海の鋼鉄葬」は内容的には架空戦記ではないのだけど、そういったパッケージングで出ている以上、例外にはならないのだ。予想はしていたことだけど、やはりがっかりした。
ならば、間口が広いはずのSF誌では取り上げてくれるだろうか、と思っていたが、「SFマガジン」ではレビューはおろか、その月の刊行リストにさえタイトルを見つけることはできなかった。あとでレビュアーの人と話をする機会があったのだけど、「学研の新書はノー・チェックだった」とのこと。とほほ……。
「面白かったですよ!」「最後は泣けました」という読者の方の声を直接聞いて、ちょっとは持ち直したものの、落胆したことに変わりはない。
どのような作品もジャンル分けされ、その中のコードで評価されていくのがこの世界の現実。ジャンル横断的な作品を書いていくのは、やはりミスマッチ故のハンデがつきまとうようです。これで挫けずに、あの手この手で続けていこうとは思っていますが。
2002年 歴史群像新書(学研) 表紙/水野行雄
最近の架空戦記は、歴史・戦史に関心がある人向けというよりは、架空戦記を読み慣れた人向けに書かれる傾向にある。「紺碧の艦隊」から数えても10年以上、そのあいだ拙作を含んで何百作と世に出ているわけだから、自然な流れというやつだろう。
それはそれでも良いのだが、ジャンルの先細りを意味するのも事実。入門的役割を持った、ベーシックな作品は常に必要ではなかろうか(どのジャンルでもそうだ)。
今年の6月はミッドウェー海戦から60年目ということに気づいたとき、腹は決まった。同海戦こそ、「あのとき、こうだったら」という架空戦記の基本型だからである。
という旨の企画書を書いたところ、あっさりと採用となった。
以上は本音だが、架空戦記の枠を大きくぶち破る「溟海の鋼鉄葬」を書き上げた直後でもあり、同じ作者がこうしたものを続けて出すのは意外性があって面白いのでは、と考えたりもした。
こうした実際あった海戦の改変物は、改変される前の知識があったほうが絶対面白い。そこで作品によっては現代の人間がタイムスリップしたり、前世からやってきたりと、比較できるようにすることが多いのだが、1冊の中の中篇でまとめるにはちょっと苦しくなる。そこで思いきって史実のミッドウェー海戦はこうだった、と頭のところでまとめてみたわけです。「おれはミッドウェー海戦なら知らないことはない」という人は飛ばして読んでくれても結構です、と。
架空戦記の部分では主力部隊の戦艦を大きく前面に出した。この後のソロモン戦ではまったく出番のなかった旧式低速戦艦を使う機会はここしかなかったと思われる。
最後に載せた「あの艦を撃て!」はずっと前から考えていたSFネタ。ストレートな架空戦記のあとには、曲球を投げる。これが私の投球術というわけ。
登場人物のジョージ・ガモウは、「スタートレック」のジョージ・タケイと「スペクトルマン」の蒲生譲二から。もちろん、林譲治さんとは何の関係もない(笑)。
ラストの「女神像」の意味はもちろん皆さんお分かりのことと思います。ああいった「女神像」のあるアメリカって、どういう国になっているんでしょうねぇ。いまでも十二分に好戦的な国ですけど(山本貴嗣さんの言葉を借りると「世界番長」)。
2003年 歴史群像新書(学研) 表紙/藤井祐二
これまで架空戦記を書くにあたって意図していたのは、なるべくタイプの異なるものをやろう、ということでした。「氷山空母を撃沈せよ!」(93年)では超兵器の登場、「邀撃マリアナ海戦」(95年)ではひとつの海戦の書き込み、「帝国大海戦」「帝国戦記」(94〜99年)では同盟国の組み替えというように(ちなみに「第二次宇宙戦争」(00年)はSFであり、「溟海の鋼鉄葬」(02年)のテーマは架空戦記のものではありません)。
第二次大戦中にタイムスリップした自衛隊が米軍と戦うパターンも書いてみたいと前々から思っていたのですが、すでに小説やマンガで多くの作品が発表されています。
何とか独自色は出せないものかと考えている最中、ヒントになったのは2003年春の「イラク戦争」でした。1991年の「湾岸戦争」では、戦場の映像(ミサイル搭載のテレビカメラ映像を含む)がお茶の間のテレビに多数登場しましたが、イラク戦争ではその密度がはるかに濃くなっていました。
その図式を第二次大戦中に持ち込めないか、という考えがきっかけです。実際に戦闘を行う自衛隊だけではなく、戦況を伝えるマスコミ、それを受け取る国民(ミリタリーマニア、反戦デモに参加する人、野次馬、かつて日本とアメリカが戦争をしていたことすら知らない無関心な人)すべてがタイムスリップして当事者になってしまえばどうなるか。そういったところから「天空魔弾」は着想されました。
舞台は、1945年の夏。終戦までおよそ3週間という時期からスタートします。
戦前の早い時期にタイムスリップさせて、日本国そのものの政治・戦略、太平洋戦争のデザイン全体から再設定する作品はすでにありますし(先駆的な作品は1975年に発表された豊田有恒氏の『タイムスリップ大戦争』でしょう)、それを始めれば話がオオゴトになります。そこで「天空魔弾」は短期決戦の話として、焦点を絞ることにしました。
短期間といっても、連日のB−29襲来、ソ連軍の参戦、原爆投下と劇的な出来事は盛り沢山。また、自衛隊のハイテク兵器は強いといっても弾薬不足という欠点があり、日本自体も食糧とエネルギーが決定的に不足している。1945年の夏を舞台にしていながら、危機管理や「アメリカとのつき合い方をどうするか」といった現代的な問題にもつながってきます。そこがタイムスリップさせる意味というもの。いろいろ複眼的な視点でお読み下されば幸いです。
蛇足。タイムスリップについて。
タイムスリップ、時間旅行、パラレル・ワールド、オルタネート・ヒストリー、改変世界……。いずれもSFファンにはお馴染みの用語です。
架空戦記も改変世界の一種という捉え方で、一時期はSF雑誌のレビューで架空戦記が取り上げられていたこともありました(実際、下地として、SF作品には戦争を扱ったものが多いですし、80年代のアメリカでは南北戦争で南軍が勝利したものや、第二次大戦でドイツが勝利したものを集めた、まさに架空戦記的なSFアンソロジーも出版されたことがあるそうです)。
ですが、現在では様子が違います。SF作家が書いたもの(けっこう多い)はいまでもSF雑誌のレビュー欄の出版リストには載っていますが、それ以外は「完全に別物」あるいは「近いように見えても遠い物」という見方が主流になっているようです。
(出版社サイド・売る側の都合でジャンルやレーベルを分けている場合もあり。基本的に人間というのはカテゴライズするのが好きな「生き物」なんですね)
私自身としても、読者の一部は重なるものの、やはり両者は別物(少なくとも求める部分は別)であると認識しています。
ですから、SF用語としてのタイムスリップは、架空戦記では単に自衛隊と米軍を戦わせたいがための単なる「装置/方便」といえます。実際にある物理学の最新時間論、あるいは空想科学を延々と書いたとしても、架空戦記の読者の99.9パーセントには興味のないことでしょう。
てっとり早く、「ウルトラQ」に出ていた一の谷博士のような何でも知っている人(笑)を出して、「これはタイムスリップしたのじゃよ」といえば済むことです。
しかし、さすがにそんな30年以上前のパターンをストレートにやるのは気がひけましたので、「天空魔弾」では変化球を投げてみました。
リアルに考えて、科学者、政治家、官僚、テレビのコメンテーター、誰も「これはタイムスリップしたのです」などとは口にしたくはないでしょう(1巻P145参照)。そこで胡散臭い作家にいわせよう、となったわけです。
「SF作家にすら断られた」という部分は、やはりまだどこかで接点をつくろうとしている意識の裏返しなのでしょう。それこそ、架空戦記の読者の95.5パーセント(お、少し下がっている)には興味のないことかもしれませんんが。
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